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共猟

今日は姫路から猟の先輩が狩猟一年目のチャーミングな女性を連れて来られて共猟をしました。とても熱心に吸収しようとされていたので、こちらも引き締まりました。

午前中、3人で互いに単独で歩きながら追い込んでゆくスタイルの猟。静暖の郷での昼食を挟んで犬を使った山道猟。そして流し。
結果的に私のミスリードで獲れなかったのですが、「あれ、猟ってこんなに楽しかったかな?」というほど楽しい時間でした。


画像は犬を使った山道猟でのGPS画像。

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1で尾根を走る鹿を発見。
2で1から移動した鹿をレディーが発見して追跡。
3で一回目の追いつめ。
4と5でまた追いつめ。
5で追いつめている時に、私が青線の先端まで追いついたもののまかれたのか戻ってきたレディーと合流(もしかしたら無理に追いかけずにどこかで待っていたら鹿が私に気付かずにレディーが上手い具合に追い込んでくれたかもしれない)。

いったん戻って尾根を挟んだ山道に入る。

6でレディーが鹿を発見。多分前のラウンドの3で分散したグループの一つ。
7で追いつめたもののまかれたらしく戻ってきた。


両回とも、ほとんど走る様にして登るのだけど、なかなか犬には追いつけない。谷ではなく、尾根を歩く様にしたら追いつけるのだろうか。一度試してみよう。
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by oglala-beads | 2013-11-30 22:08

撃ち外す

レディーの動きの確認の為に林道を歩く。今日は鹿を見付けた時にどうやっているのかを実際に目で見る為のコースを準備した。崩壊した林道なので犬と近いペースで歩く事が出来る。
しばらく行くと右手に鹿の群れを発見。猛然と追いかけ、逃げ遅れた老いたメス鹿に追いついて、吠えずに動きで足止めしている様子(point-1。赤がレディーの軌跡で青が私の軌跡)。
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試みに声でレディーを呼んでみる。鹿は私とは反対方向に逃げる。レディーが追って、point-2で鹿の悲鳴が聞こえた。point-3で少し足止めした後、point-4で5分ほど足止め。私がpoint-3に到着。姿は見えなかったので、再び試みに声で呼ぶ。やはり鹿は反対側に逃げる。そのまま真っ直ぐ里に下ってpoint-5で数分足止めした後、こちらに向かって追い立て始めた。そこでpoint-3の少し北で装弾してGPS画面を見ながら立て膝で待っていると、ほどなく鹿がやってきた。
正直言って解体の時間も無いし、原皮は充分あるしなあ、しかしこういう状況になったからには撃つことでレディーとの信頼関係が強くなる。
そんな事を考えながら、充分に引きつけて発射。あれ?
もう一発。あれ?
走っていたとはいえ、老鹿の登り坂。しかも15mほどの距離。言い訳も何もありません。

それにしてもレディーは素晴らしい動きをしました。その後も帰路、一度鹿を囲いこんだ時(画面左側の大きな円)も、最後は私の方に追い落とそうとした様です。何度か追いついていたので、偶然ではなさそうです。
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by oglala-beads | 2013-11-29 18:35

猟期に入りましたが、、、

今月15日に猟期入りしました。今年の猟期に獲らなければならない鹿は、皮として必要な数で言うと、0。冬の鹿はもう結構な数のストックがあって。
しかし、村の鹿でいうと、おそらく20頭は間引きが必要に思います。

しかし、どうも今年は(も)やる気が出ません。今日も充分撃てる場所に2頭。

「撃たないんですか」
「あれは母一人、子一人の最悪パターンだから」

親が獲られた場合(大概、親が鳴いて人目を引いて子供を逃がす)、他の近親者が子を育てるグループもあれば、仲間はずれにするグループもある。親を獲られた子は必ず違うグループに合流すると思っていたけど、実際はそうでは無かった。そういう子が、生前の母親が教えたコースを、来る日も来る日も、飢えてガリガリに痩せ細った姿で、無い餌を探して歩いている姿は辛い。
見かねて待ち伏せして殺すのだけど、普段は脳を撃って送る。でも時々心臓を撃たなければならない時もある。飢え切った鹿が心臓を撃たれた時、どんな風に死ぬか、ハンターの方、見た事ありますか?そういう鹿は撃たれても飛び上がらないし、走らない。静かに静かに前脚を折って、まるで眠る様に座り込んで死にます。

冷凍庫パンパンにつまった鹿の生皮を処置すれば、ちょっとは獲る気になるかな?
ははは、、、たかがアクセサリーと思われるかもしれませんが、なかなか辛い仕事です。
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by oglala-beads | 2013-11-21 19:19

心を強くしたい

クリント・イーストウッドの「ヒア・アフター」がCSで上映されていました。配偶者がマット・デイモンのファンなので観始めたのですが、観る前から自分には無理だろうなとは思っていました。案の定、開始後5分ほどで胸が破れそうになって席を立ちました。配偶者は最後まで観たようです。
女性は男性よりも強いと言われますが、基本的に心はやはり丈夫に出来ているのでしょうか。それとも、痛みにつよい、または鈍い。もしくは単純に人生経験、または亡くした数にもよるのでしょうか。
私自身が現在非常に感じやすく、脆くなっているせいかもしれません。よく想像するのが、私の心は現在、なみなみと満たされたグラスの上の木の葉みたいだと。表面張力でグラスから盛り上がった所にいる心は、ほんの少しのさざ波にも耐えられずに、グラスから滑り落ちそうになる。一滴の落下で、グラスからは水が滴る。静かにしていれば蒸発して、ほんの少しのグラスのヘリに守られる。
最近、心はどうやって痛みから強くなれるのだろうと思います。若い頃はまだグラスが空に近かったのか、どんなに辛い映画を観ても泣くだけだったし、肉親やペットや友人の死も乗り越えてきました。
この状態を維持しているからこそ、感受性が鋭くなって、良い商品、とても繊細でかつ力強い美しさを生み出せているのは認めます。でも、今ちょっと自分自身の脆さが怖いんです。
出来るだけ多くの人に、私という存在がいたことを知っておいてもらいたい。理解して欲しい。痛みを分かって欲しい。甘えさせて欲しい。ずっと私のことだけを考えていて欲しい。引き留める力が多く強いほど、留まれる気がする。でも、そんなじゃ駄目だ。近くに来れば来るほど段々と違いに耐えられなくなってくる人もある。晩年の尾崎豊の気持ちが最近分かる気がします。心を強くする方法が知りたいです。ヨガとかで射撃の際の平常心は保てるのですが、心の強さというのは、そういうのとはちょっと違うみたい。
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by oglala-beads | 2013-11-10 10:41

人のシュウキョウをわらうな

先日、親しい方がお葬式に出席された折りの話を聞かせてくれました。
キリスト教式だったそうですが、故人は神社仏閣の研究に一生を捧げた方だったそうです。

私の実家は、クリスマスを祝って年越しは神社に参る、ごく普通の日本の仏教徒です。多分、そういう育ちの方が、今の神戸市を見ると、ある特定の新興宗教に対して胡散臭げな目を持つのは仕方ないと思います。なにせ市役所向かいに大きなビルが二つもあり、新聞社、テレビ局、はたまた市まで取込まれている様相なので。私もそんな感じでした。
その新興宗教は、私の住んでいる村にも信徒がおられるのですが、その互助体制を見ていると、ああ、悪いものではないなあ、むしろ自分が最後に天涯孤独になったら入信したいとも思う様にさえなりました。
一人暮らしの方が孤立しない様に、かならず会話しながら毎朝宗教の新聞を配ったり、葬式の際には周辺信者で手厚く送ったり。
田舎には元々の互助体制があって、私の村でも葬式が出ると、両隣の家は座敷を開放してお坊さんをもてなしたり、隣保総出で式を手伝います。でも、うちの様に村の檀家では無い家は正直どうなんだろうと思います。過疎、超高齢化でその体制も維持は難しいでしょうね。
うちは子孫の存続が既に難しいので、墓の永代供養代を既に払ってお願いをしているのですが、それでも参る人が居ないと無縁仏として寺の一角に墓が積み上げられるそうです。

互助体制、すべてが繋がって生きているのは動物だけではなく、人もそうだなと宗教一つとっても思わされます。

ところで冒頭のお話。何故、そんな方が亡くなる寸前になってクリスチャンの洗礼を受けたのか。実は彼の家族は、彼以外皆、家族の影響でクリスチャンだったそうなのです。つまり、、、分かるでしょうか?彼の家族に対するすごく大きな愛情。
その話を聞いた時、辛すぎて思わず、、、まあ私は涙もろいのですがね。それにしても。
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by oglala-beads | 2013-11-06 15:07

食べかけのジャガイモ

10月末で、罠の駆除期間中設置が終了しました。私は村の2台の箱罠の管理を任されております。
実は私は罠を使うのが非常に苦手です。実技的にではありません。精神的にとても苦手です。
それでも去年までは騙し騙しやってきて、そこそこの数を間引いてきたのですが、今年はついに心が折れました。どうしても出来なかった。結局一頭も獲りませんでした。

その事を村からどう思われているか、正直分かりません。でも、今日村の寄り合いの際に横に座った方からその事を聞かれた際に、正直な自分の気持ちを言ったところ、とてもよく理解してくれました。しかし次第にその方の声が、水の中の様に聞こえてきて、気付いたら血の気が引いていました。慌てて席を抜け出し、泣きじゃくりながら雨を見ていました。

私は、何事も、出来る人と出来ない人を同一に考えて同じ事をやらせるのが嫌いで、出来ない人に無理にやらせることはないと考えています。
分かりやすく言うと、例えば「ブタのいた教室」という映画。きっとそこで描いていることは尊い事なのだろうとは思うのですが、しかし、多人数の出来る人と出来ない人に同一にそれを押し付けるのはどうかと考えます。出来ない人のための逃げ道は用意されているのだろうか。それを皆が認めるのだろうか。出来ない人の尊厳は守られるのだろうか。

きっと私は、本当は殺せない人なのだろうと思います。でも、殺せない他人を認めているのに、殺せない自分を許していない。
そうまでして人のためにアクセサリーを作り続ける必要があるのかと思うけど、それでも引き返せない。


大きなメスの猪だった。罠などというものを知らない無邪気な子だった。だから時間はかかったけど、簡単に獲る事が出来た。とても楽しみに毎日罠に通っているのが分かっていた。毎日イソイソとやってきては、音符マークを飛ばしながら、嬉しそうに食べていた形跡があった。選り好みをしない子で、私のあげたものを素直に残さず食べていた。
突き殺し、罠から引きずり出して、ふと罠を振り返ると、彼女の食べ残したジャガイモが、罠の中にポツンと転がっていた。
朝の光を浴びて、彼女の最後の悦びが、小さな小さな影を落としている。今も、私の心の中で。
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by oglala-beads | 2013-11-03 20:25 | 共生のサイン