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Tシャツ開始

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Tシャツのビーズ細工を開始。実作業のみで60分かかり、なんだかんだ入れると一枚所要時間80分。それを一日14枚ペースで仕上げて、なんとか各店舗が連休中にお客さんに見せることが出来る量は仕上げた。それでもこの連休初日で納品した半分を売ってしまった店もあるらしい。かなりの人気ですね。有難うございます。なお、再販の予定は無いので、予約出来なかった方で欲しい方は、取扱い店舗の方へ問い合わせてみて下さい。このTシャツの取扱い店舗については、こちらでご確認下さい。
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今回のTシャツは、現在よく動いている店舗にしか企画の話を持っていかなかった。一般にもミクシ上では早くから告知していたけど、ブログ上では受付期間がとても短かった事もあり、各方面から沢山お叱りの声を頂いた。
今回はそうしたかったんです。

ちなみに、このデザインを用いて、夏頃に長袖Tを出しても良いかなとは考えています。その際は、前面はビーズをしないで、ロゴを胸一杯にしたものを持って来るつもりです。土台の色はチャコールか茶色。勿論背面にはボンネットデザイン。

服で言えば、土台が見つかれば、秋にはビーズのウェスタンシャツ。系統は今回のTシャツの様な、重い系統。黒地に黒のビーズとか考えています。

あと、ちょっと前に告知したWILD WESTのTシャツを、リブリンガーTとタンクトップで展開しようかと考えています。また、Tシャツは来年夏のもののデザインも既に仕上がっています。今季のものとは違って、カラフルだけどやんちゃです。土台は赤のみ。バイカーには最高のデザインですよ。お楽しみに。


Tシャツにとりかかる前に、スペシャルオーダーを何点か仕上げた。

それぞれに色々とストーリーもあるので、また後日、一点一点、作業日誌で紹介します。とりあえず今日は写真だけ。

NEW DEAL別注、Black War Bonnet Porch
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FUNNY IMP、担当者別注、Italian antique special
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客注、Both Side Beaded Porch
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今週前半はFUNNYメンズ館店の展開商品の制作。後半は再びTシャツです。5月中旬までは家を出るのも難しいぐらいになりそう。でも、制作が現在楽しくて楽しくて仕方ありません。自分なりに上手く段取りをして、創造する作業、単に制作する作業を織り交ぜていっているのが功を奏しているのだと思います。しかし、体調管理が大変です。実際、高血圧で土曜日も危なかったので、気をつけねばなりません。


連休に入って、雑誌を見て等、問い合わせがすごく多い。大概アシスタントが電話をとって対応してくれるんだけど、土曜日などはあまりに電話が多すぎて、僕がとったりもした。実はアシスタントも僕も電話が得意ではないので、かけて下さった方々、失礼があったらゴメンナサイ。


REDWINGのエンジニアブーツ(2268)、ヒモ靴が好きなので持ってなかったのだけど、長靴にはまってから、やっぱりこれが欲しくなって衝動的に購入。現在、工房内でスリッパ代わりに履いて馴染ませているのだけど、甲高には根性無いと履けませんね。ワイズは細いのでDでピッタリだったんだけど。今で4日目か。徐々に靴下を厚くしてインソールを入れたりしてるんだけど、甲はもう青あざです。
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by oglala-beads | 2008-04-28 01:39

野々倉

母は、今ではもう少なくなってしまった戦争体験者の一人で、第二次大戦時は小学生だった。当時の母の実家は、神戸最大の繁華街・三宮駅の裏で、昔、コトブキがあった場所(現在AOYAMAコーヒー店)だった。そこで料亭を営んでいて、幼い頃の遊び場は、家の向かいにある映画館だったそうだ。そのためか、現在でも洋画が大好きで、家に居る時は、おやつを食べながら猫とコタツに陣取り、スカパーのスター・チャンネルを見ている。

小学校5年生の折りに、学校全体で神戸より西の方にある高砂市(僕の配偶者の実家があるところ)の阿弥陀という場所に学徒疎開をした。そこでは地元の子供達との折り合いが悪く、「疎開もの」といって、疎開生徒全体が非常にいじめられたそうだ。また、食料も乏しく、一刻も早く家に帰りたいと願っていたという。
その願いはあまり幸運とはいえない形(母にとっては幸運だったそうだが)で、案外早くに叶えられた。三宮駅裏の実家が空襲で消失し、伝手を頼って家族ごと岡山県高梁市の野々倉という場所に疎開することになったのだ。
母が野々倉に居たのは小学校6年生の一年間だけだった。卒業と同時に、母だけ京都の親戚の家(有名な画廊で、そこの息子さんの一人ー母からは従兄弟にあたるーは現在著名な日本画家、一人は著名なバレイ・ダンサーである)に下宿して、同志社の中等部(?)に通い出したからだ。その間も母の母(継母だった)と、途中で敗戦で復員してきた母の父とは野々倉で生活していた。
母が中等部を卒業すると同時に、家族は東京に移り、母は学習院に入学。現在の天皇陛下や小野ヨーコさんなどがクラスメートだった。

母にとっての野々倉での一年は非常に楽しいものであったらしく、昔の思い出話の多くは野々倉でのものだ。また、現在でも当時の友達の一人「ふみちゃん」と手紙のやりとりをしていて、10年程前には数10年ぶりの再会をしてもらうため、車で連れて行った事がある。

去年の秋頃、現在では農家に嫁いで野々倉を出て同じ高梁市内に住んでいる「ふみちゃん」から、「久しぶりに野々倉に行ったのだけど、英子ちゃん(母)が住んでいた家もそのままだったし、昔遊んだ泉や神社もそのまま残っていたよ」と手紙に書かれていたと聞いた。

「そりゃあ、お母さん、見たいでしょう。近く、行きますか」
「そうねえ。じゃあ、ふみちゃんにいつ頃がいいか、聞いておくわ」
「是非、年内に行きましょう」

ということだったのだけど、暖かくなってからの方が良いということで、農繁期に入る前の4月の17日に一家総出(母、配偶者、コロ、僕)で訪ねてきた。

あらかじめ母に「野々倉は本当に山奥で、現在でもあまりひらけてなくて、当時とそんなに変わらないそうだから、宏顕、多分驚くと思う」とか、「あまり派手な格好で行くと驚かれるから地味に」等、色々と言われていたのだが、僕も田舎に行く事は多いし、定住先として兵庫の田舎で物件を探しているのもあって、田舎には慣れている。そこで「何程の事やあらん」と大して母の注意に耳を傾けていなかったのだが、実際に行ってみて、自分が今まで経験した田舎とは、まったく異質な場所で本当に驚いた。正直なところ、色々な文明の利器はあるのだけど、それでも、ともすると数十年前にタイムマシンで遡ってしまったかの様な、そんな印象を受ける。

野々倉は落ち武者の里である。それも平家や伝説上のものではなく、尼子の家臣が落延びて秘密裏に拓いた里である。時の権力者に発見されれば皆殺しにあう。故に、非常に山深く、また、外観からは発見されにくい山奥の窪に作られた隠れ里だ。近年になって上下を貫通する車道が出来るまでは細い山道があっただけの様で、麓の村から大人の足で1時間程もかけて歩かなければならなかったらしい。母も小学校まで、山道を時間をかけて通っていたと聞く。

岡山道有漢出口でふみちゃんと、ふみちゃんのご主人が車で待っていてくれた。「道が細せぇ〜ですけん。気をつけておんで(ついてきて)くだせぇ」と、ふみちゃんの車に先導してもらい、最近開通したらしい新しい道を通って、ちょうど村の上に出る様な形で入っていった。
途中、有漢からの道は綺麗で広さもあり、どこにでもある山里風景といった感じだった。また備前焼の窯やギャラリーなども点在し、この地に移り住んでいる芸術家も多い様に見受けられ、商店等の施設は無いものの、そういった意味でひらけた若い山里の印象を受けた。
野々倉はその山里の、山の反対斜面に位置している。峠を越えると、突然道は細くなり、野原の空き地に入ってゆく様な印象を受ける。やや、急な坂を下ると、野々倉だった。村に入ると最初に古い神社の建物が出て来る。ふみちゃんの車に乗り換えていた母が、車から降りて、ふみちゃんと神社に向かう。配偶者と僕も降りて後を追う。

「ちょっと、宏顕!あれ!あのさるすべりの木!」と僕が追いつくや否や母が興奮している。
「私、あの木にいつも登っていたのよ!・・・あの頃から、あれぐらいの大きさだった様に思うのだけど・・・それでね、ある日あの木から落ちちゃって、そしたら村の人みんなに、”そら見ろ、女だてらに神社の祠の天井によじ登ったりしとったからじゃ”って笑われて」

祠も木も、その辺りの情景は、当時と全く変わっていなかったらしい。

神社を出て、ほんの少し道を下って、村のちょうど真ん中の一軒の家の前で車を停める。その家のおかみさんが懐かしそうに迎えてくれた。母はこの家の離れの2階に、家族と一緒に住んでいたらしい。出てきたおかみさんは、同い年ぐらいで、当時よく一緒に遊んだのだそうだ。

野々倉の当時の戸数は8。それが現在では4軒に減ってしまったという。その4軒がほんの50メートル足らずの山間に肩を寄せ合っている。全員が尼子の子孫で親戚同士、名字も皆同じだ。一軒ずつ、手みやげを携えて挨拶に回る。当時を直接知る人も多かったが、世代が変わった家でも、母の事を聞き知っている人は多かった。

車を停めた家に戻り、思い出話に花が咲く。

例えば僕の世代の神戸の人間なら、「ああ、あれは地震前だよ」とか、阪神淡路大震災を時代の基準に考えていることが多いと思う。それが母達の思い出話では「終戦」がキーワードになっている。それで通じ合う世代しか、この村には残っていない印象が強い。このままだと、じきに廃村になってしまうのだろう。

この村に入ってからというもの、時が数十年遡った様な、妙な感覚があった。誰と話していても、ガラス越しに話しているというか、実感というものが湧いて来ない。勿論最新の電話や電化製品が並んでいるのだが、その感覚は最後まで消えなかった。そして、濃厚な血の匂い、親族という単位で構成された血族の匂いがあり、僕なんかは押し返されてしまう様な感覚があった。
正直、こういう場所は初めて経験した。よく当時、今ほど全国どこにいても情報を享受することが出来なかった時代に、間借りすることが出来たものだ。

秋田のマタギなどの言い伝えの本を読んでいると、他所からの人を入れないためはおろか、分家を作らせない為に、いかに苦労していたかが分かる文章が出てきて、僕なんかは非常に興味深いのだが、ここにもそういった暗黙のシステムの様なものがあったのだろうか。

しかし、誰のところに行っても母の母は非常に人気者だったことが伺える。どこに行ってもエピソードがある。それを母に聞いてみた。
「それはそう。母はとても偉い人だったから。誰よりも早く起きて天秤棒を担いで沢に水を汲みに行って、自分の仕事が終わったら、平等に、すべての家の畑仕事を手伝いに行っていたのよ。今日は〜さんの家、明日は隣、という具合に」
「そのおかげで、何も持っていなかったのに、私は食べ物にはまったく困らなかった。みんな、なんだかんだと持ってきてくれるの」
「それが面白い事にね、持ってきてくれるのは、必ずみんな夜中。周りの家が眠ったのを見計らってから来てたんでしょうね」
やはりこの村にも、よそものを居づらくさせるための、なんらかの暗黙のシステムの様なものが存在したのだろう。

本当は当日中に帰る必要があったからなのだが、そういう濃厚な血族の匂いに僕の場合押し出される様にして、早々においとまして山を下りた。

降りる道はとても細く、トラックなどはまず無理だろう。途中、学校帰りに寄って飲んだという湧き水や鍾乳洞の入り口などを案内してもらう。
こちら側は、山を下りると商店などもあった。しかし車が無ければどうやってここまで買い物に来るのだろう。生活の大変さが伺えた。

ふみちゃんが当時を振り返って、
「夜遅く帰ってきた事があって。ううん、子供の自分よ。そしたらね、向こうの方から、””ふが〜ふが〜”って、何かが聞こえてくるのよ。おっかなくて・・・。でも引き返す訳にもいかないし、仕方無いからこわごわ追いついたら、近所のおじさんに引かれた牛だって・・・そらもう、ほっとして・・・。今はアスファルトの新道が出来てるけど、当時は本当に山道だったし、全く見えないぐらいの闇だったからね」
「そうそう、私なんか、よく蛇をふんじゃったのよ」
「お母さん、それ、多分マムシですよ。夏の夜でしょう?」
「そうそう」
「マムシは、暑い日の夜は、道なんかに涼みに出てくるんですよ。それで他の蛇と違って動きがのろいから、逃げる間もなく踏まれてしまう」
「まあ、よく噛まれなかったものだわ(笑)」

「そういえば、昔、よく野々倉で肝試しした時の不思議な話を教えてくれたでしょう?」
「ああ、英子ちゃん、あの白いなんかを被った人の話?」
「そうそう(笑)。村の子供達で肝試しをしていたら、下駄を履いてタバコをモコモコ吹かしながら白いシーツみたいなものにくるまった人が墓地の方から降りてきて」
「それで、あれ、誰だろう、って話になったんだけど、よし、おどかしてやれって」
「おばけ〜って出たのよね、そしたら”なんじゃ?”って言って」
「なんだかそれで、こっちが驚いちゃって、何も言わずに見ていたら、一人で坂を上がって行って」
「ずいぶんと遠くまで白いのが見えてたんだけど、スっと消えてしまって」
「あの頃、それを聞いて”不思議な話だなあ”としか思わなかったのだけど、実際に今日見てみて、そりゃあ、さぞかし怖かっただろうなあ、って思いましたよ」
「でもあれねえ、実は後で聞いたら、近所の家に泊まりに来ていた若いお兄ちゃんが、子供達が肝試しやってるっていうんで、よし逆に驚かしてやろうって、来たらしいのよ」
「ああ、なんだ、そうだったんですか」


ふみちゃんの家は農家で、自分のところで食べる様に椎茸も作っている。また、ご主人は農作業中にマムシが出てきたら捕まえて皮を剥いて、やはり干して利用しているらしい。
色々と都合が悪くて今年はあきらめたが、椎茸栽培には興味があった。また、マムシは今年は捕まえに行こうと考えているぐらい、最近は一番興味あるものだ。そこで色々と話を伺っていると、なんと駒打ちが済んで伏せ込みも終わりに近い原木を6本も分けてくれた。また、マムシに関しても役に立つ面白い話を教えてくれた。

帰り道の山陽道は夜は慣れていないと怖いので、暗くなる前に辞去し、帰路についた。
行き道もそうだったが、配偶者が後ろの座席で熟睡していたのに比べ、母は全く眠くない様で、ポツポツとだが、当時の話などを聞かせてくれた。

僕は来年で40歳になるが、そんな若造なせいもあるが、小学生の頃の事など、今でも鮮明に覚えているものだ。まるで昨日の事の様な手触りで、すぐ目の前にある。僕の小学生時代は、ともかくいじめられっ子で、あまり幸福な時代ではなかったのだが、それでも悪かった事より、楽しかった事の方が良く覚えている。

母からしても、そうだったのだろう。
「楽しかった事は思い出せるんだけど、辛かった事は・・・きっと何かあったんでしょうけど、思い出せないわね」
そうやってすぐそばにある思い出に手を伸ばして、きっと手触りまでも、当時のままだったのだろう。野々倉で撮った写真の母は、今まで僕が見た事の無い、屈託の無い笑顔だった。
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by oglala-beads | 2008-04-20 00:03

血肉

イリノイ州在住のルポライターのデイ多佳子さんが新刊を出版。
彼女がサウスダコタに住んでいた時代に出版されたエッセイ集「バナナとリンゴ」を書店で手に取った事が、僕がラコタに行くキッカケの一つを作った。その後、僕がファンレターを書いた事から、今に至る交友に発展している。
その「バナナとリンゴ」、数ある多佳子さんの出版物の中でも僕の選ぶベスト作だ。
今度はイリノイなのだけど、本の紹介を見る限り、「バナナとリンゴ」に近い感じがする。目次を見ているだけでワクワクする。今から期待大だ。
観光コースでないシカゴ・イリノイ」、2008年4月15日発売。
多佳子さんのウェブサイトへは、リンク欄から。


多佳子さんが書く様なアプローチのインディアン関連書籍だとか、インディアン宗教、政治(自治)、等の洋書はよく買って読んでるんだけど、インディアンの図柄集だとか、クラフトの本だとかはあまり持っていない。厳選した数冊があるぐらい。多分、インディアン好きの皆さんの方が沢山お持ちだと思う。
製作する時に頼りにしているのは、ラコタで教わった感覚・・・リズムの様なもので、一度身に付くと、どこを変更させて良いのかも自ずと分かる・・・、そして日々の自然の移ろい。
そういえば故クリスティーンおばあちゃんも最後に会った時に「大事な事は身に付いているから、本を読むよりは、自然の移ろいを見なさい」って言ってたっけなあ。今ではあれも、遺言になってしまった。

確かに昔のラコタは、まわりすべてから色濃く影響を受けていた。過去の完全な模倣は大切だが、自分なりの噛み砕きが無いと形骸だけになってしまう。
日本に居ても、案外と、自然の中にいて、考えずにただ眺めているだけで、その形骸に自分なりの肉付けが出来る様になってくるものだ。そうやって自分なりの噛み砕きをして10年以上かけて再構築して、一つ一つの柄をデザインしていっているので、ラコタの柄でありながら自分の血肉が入ってゆく感覚がある。

僕が作っているものの殆どは、ラコタ族が居留地に入るか入らないかぐらいの時代のものを想定している。その時代、ラコタは狩人だった。それもあって、僕は今年狩猟免許の所得申請をした。実際に、自分が狩りに同行するようになって、作るものが急速に変わったのを自分で感じるし、ラコタの模様一つ一つから受けるイメージも変わってきた。やはりその立場に我が身を置かないと分からない事もある。
僕は本で得た知識は、自分のものであれ他人のもの(自分でフィールドワークしたものではない、書籍等の受け売りの知識)であれ信じないので、自分が狩人になることは、今の僕にはむしろラコタに行くのと同等、いや、それ以上に重要な意味を持つ。自分の商品に、より血肉を吹き込むために。

僕のブログなどを一生懸命見て、僕のコピーを作る人も居る様だが、これが無いので血肉が足りない形骸だけの軽いものになってしまっている。いわばカスのカスだ。どんなものでも良いから、自分の血肉の感じられるものを作ってもらいたいと思う。僕のためではなく、あなた自身のために。



僕の住む場所では、今は桜も葉桜になって、風が吹くと桜吹雪が舞う。舞って来る花びらの中から、小さなモンシロチョウが浮かび出して舞い上がってゆく。

なめしで、鹿の元皮を漬けてあるバケツの水面に桜の花びらが浮かんでいる。夕方に見るとミツバチが浮いていた。昔見た日本映画「汚れた英雄」で、草刈正雄がプールにうつぶせに浮かんでいるシーンを思い出した(さすが角川、原作を見事に破壊してしまった映画だったが、あのシーンは秀逸だった)。手近にあったテント用のペグで掬いあげて、温室に入れておいた。羽根が完全に濡れていたので駄目だろうと思ったが、翌朝元気に温室内を飛び回っていた。

晴れが数日続いて、雨が降る。雨上がりに見ると、庭の雑草の背丈が高くなっている。
コロに誘われて外で仕事をしていると、マイマイガの一令幼虫が服についていたりする。


テンの鞣しが終了した。申し分無い柔らかさと形に仕上がった。テンについては、毛皮を自分で鞣す為にこのブログに来てる方も居る様なので、機会を見付けてあらためて最初から書こうと思う。
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鞣し途中の乾燥プロセスの皮を、水で戻しにかかる。5月中にストックしてあるものはすべて完成させたい。

今週は真ん中あたりにTシャツの土台が仕上がって来る。それが来たら、GWまでに出荷する為、18日に外出する以外は寝る時間も無いかもしれない。

18日は岡山の田舎に椎茸栽培なんかを見学に行くので、その際にマムシも探して来ようと思う。食べるだけじゃなくて、皮をなめしても面白そうだ。
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by OGLALA-BEADS | 2008-04-13 12:35

タツさんと丹波の山へ

4月1日から3日間、当ブログではお馴染みの、タツさん(群馬県水上温泉の熊猟師で、家族経営の料理旅館の板長。詳しくは横のリンクから”達也の日記”と”蛍雪の宿・尚文”を参照)が来神した。

考えてみたら不思議な縁で、その辺りの事は旧ブログの2006年8月9月頃のを読んで頂くと面白いのだけど、ともかく熊の足の裏の模様のポーチを作る事になって色々と熊について調べて行く過程で、熊と日本の熊ハンターの文化に興味を持ち(ちょうどその頃、理想の革を求めてアメリカ中のブレインタン作家の革を買い漁っていた)、ミクシのマタギのコミュニティーに入ったのが知り合ったキッカケ。
その後、熊の生皮を頂いて自分で鞣したり、自分で使う鹿革も結局自分で鞣すことになったり、水上の去年の初猟に呼んで頂いたり・・・と、少し前なら考えられない世界を体験させて頂いた。

今回の来神は仕事というわけではなく、休みを利用した観光っていうことだったのだけど、
「タツさん、山と街とどっちがいい?」
「山!・・・神戸に来てまでって感じなんだけど(笑)」
ってことで、一日目を神戸観光にして、大丸のオープンカフェでお茶を飲みながら神戸の人間ウォッチをして、六甲山頂から夜景を見た後に有馬温泉で身体を暖め、もっこすでラーメンを食べて家で酒盛りということに。その日は翌日の事もあり早々に就寝。
今回、何故か配偶者のコンパクトデジカメが壊れて、画像がこの調子。おまけに僕の一眼レフのレンズも一本故障してしまった。
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ところで、新神戸駅でピックアップしたんだけど、暑がりとは聞いていたけど、なんと短パンTシャツで現れて笑ってしまった。大丸のカフェでは横のおばさんにずっと見られているし、街を歩いていても、注目の的だった。
有馬の金泉に入っても、二人でずっと獲物の習性の話をしていて、多分他の客からしたら気味が悪かったと思う。しかもその声、隣の女湯まで聞こえていたらしい。

我が家の、しばらく研いでない包丁で、持参の肉を切ってくれる。これは水上の鹿の外ロースで、「特上に美味いから食べてもらおうと思って持って来た」という逸品。そしてタツさんお手製の生ハム。それにしても切り方次第で味って変わるものだ
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コロまでご相伴にあずかる
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二日目はいよいよ山へ。午前中、丹波姫もみじさんに向かう。運が良ければ鹿の解体が見れるはずだったのだけど、残念ながら午前の鹿の入荷は無し。タツさんに皮と肉の両方に傷をつけない解体方法を実演してもらいたかったのだけど、果たせなかった。でも、偶然一緒になった「先生」と呼ばれているお客さんに、猟に関する面白い話を沢山聞かせてもらえて本当に面白かった。僕はその中のマムシの話が特に面白かって、今年は絶対にマムシを捕りに行こうと思った。

午後になって、和田山で活動されているハンターの女性、吉井さんに案内を頼んで丹波の山へ入る。
吉井さんはテレビに出演されていたり、そのスジの機関誌なんかに文章を書かれていたりと、その世界では有名な方なんだけど、ゲームハンターではなく、自然の調和を保つ猟師さんで、思想的にとても尊敬出来る方だ。また、ヒーラーとしての顔も持って活動に励まれている(詳しくはこちらまで)。丹波鹿の有効活用のシンポジウムでお会いして名刺を頂き、以来メールを折々に交わしていた。
また、NPO法人を運営し、非常に面白い活動をされていて、僕個人的に今後をとても楽しみにしている。

まずは林道が高くまで続いている山に車で登り、周りを見渡して山の状況の説明を受けながらお弁当を頂く。
ふと気付くと、そこいらじゅうに鹿の糞が落ちている。風向きによって、どこからともなく鹿の匂いが漂って来る。

そこで聞いた話には興味深いものが沢山あった。
兵庫ではツキノワグマが凶暴化していて、子鹿を襲って補食していること。
スラッグ弾が至近距離なのに通らずに頭骨で止まってしまう強靭な猪が多い話。
ゲーム感覚ではなく、自然と真摯に向き合って、責任感をもって猟に入っている方の話は本当に面白い。なんて言うんだろう、手触りが良いというか、嘘が無いというか。
こういう手触りは、テレビや雑誌やネットなんかで得られるものではないだろう。
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食事後、山を下りて、今度は歩いて再び山に入る事になった。
熊と出くわさない様にというので吉井さんが連れていた「足元犬」に、どうせだったら鹿を追い出させて、程よい矢場でタツさんと僕とがおいたてられた鹿を待つ事にしようじゃないかということになった。

山へはスパイク付きの長靴を履く。そしてマダニが沢山出るということなので、ズボンに殺虫剤を振りかけておく。
吉井さんはよく着込まれたウールシャツ。タツさんは尚文トレーナー。僕はネルシャツという出で立ち。下は3人とも綿の迷彩だった。
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山自体は傾斜がかなり急だけど、高さが無いので登るの自体は楽だった。しかし粘土質のせいで、スパイクを履いていても踏ん張りが利かなくてずるずるとすべって難儀した。
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途中、何度も濃厚な鹿の匂いがして、糞も至る所で・・・というより、糞を踏まない様にして歩く方が難しい程だった。
これだけの量の鹿が、よくこんな狭い範囲で暮らしていけているものだ。完全に飽和状態なのだろう。それにまつわる鹿の習性の、不思議な話を吉井さんに教えてもらった。
本当に、人間が猟師として入って間引かないと、鹿どころかすべての動物の生存が危うくなるだろう。これは矛盾している様に聞こえるかもしれないが、ハンターが居ないと森は荒廃するのだ。
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杉林だが、適度に間引きされているのか、よく手入れされている様で、黒木にしては明るい山だった。
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30分程登って尾根沿いの矢場へ。谷を挟んで向こうを走る鹿がよく見渡せそうな場所だった。
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そこでタツさんが本タツ(本命の矢場)に入り、僕が自ら志願して捨ての方へ。吉井さんと犬が山を別コースで回して下り、勢子を開始する。
ほどなく、吉井さんの勢子声が時折聞こえ始める。

11月の群馬での初猟以来の感覚だ。適当な位置で、動かない様にじっとして目を広く配る。低い山なので短時間決戦だ。これだけ鹿の痕跡があるのだから、ここに入っている可能性は充分あるのだろう。
しかし、残念ながらこの日はこの場所には入っていなかった様で、しばらくして捨ての方の僕の方向から吉井さんと犬の姿を確認し、ほどなく二人の姿が見えてきた。

吉井さん、カッコいい〜
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鹿が見れなかったのは残念だけど、久々の木化けをしながら、緊張感と充足感に満たされた。狩猟民の血が僕の中には流れているのだろう。
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その後、同じコースを辿って下りるのも芸が無いというので、少し山を巻いて、沢沿いをワラビ畑に下りてきた。
沢沿いの林道を下りながら吉井さんが、
「ここね、もう少ししたら、車でないと通れないのよ」
「あ、マムシですか?」
「そうそう」
「歩けないくらいすごいんですか?」
「雨上がりの日に一度上がったんだけど、もう本当、数10センチに一匹っていう勢いで、本当にゾっとしたことがあって」
「え〜、それはまた・・・全部マムシなんですか」
「そう、全部」

それは嫌だなあ・・・でも、今年はマムシを捕まえて焼いて滋養強壮の薬にしようと思っていたので、じゃあ時期になったら何人かで来て(もしもの時の為に一人では危ない)捕獲したいと思った。とりあえず30匹も捕まえたらいいか。

その後、車に戻って、吉井さんのNPOでの活動について色々とお話を聞く。自分が「こういうのがあったらいいな」と思っていた事にピッタリ合致していたので驚いたと同時にとても嬉しかった。吉井さんのご活動については、また日を改めて、キチンと取材させて頂いてご紹介出来ればと思います。

その後、帰宅して酒盛り。海の無い群馬から来たタツさんに気を回して、配偶者がスズキの刺身とメイタガレイの煮付けを出してきた。購入していた灘の酒は、前日のタツさん持参の鹿肉には合わなかったけど、魚には非常に良い具合で、結局途中で酒を追加しに行く。これもタツさん持参の猪のスペアリブと配偶者のお好み焼きを食べながら、結局タツさん一人で一升呑んでしまっていた。前回の初猟の時にはそれほど呑んでなかったので、今回もそれぐらいだろうと思っていたのだけど、いやいや、とんでも無かった。やはり初猟の時はひかえていたのだろう。

3日目は本当は朝に僕がトレーニングで登っている山に一緒に登る予定だったのだけど、変更してギリギリまで寝ていてもらった。配偶者の朝食を頂いて、今度は電車で大阪へ。鶴橋のNALUさんに行く。
NALUさんから、僕がタツさんにもらって着けているツキノワグマの爪のペンダントトップを是非にと頼まれていたのだけど、じゃあまあ直接会ってみて・・・ってことになっていて、それが今回実現した訳だ。
僕自身もNALUの谷井さんなら大丈夫だろう・・・という思いはあったのだけど、やはりというか何と言うか、タツさんも僕が谷井さんに感じている”ある部分”を感じてくれた様で、殊の外気に入られたみたいで、ほっとした。
更には食事をごちそうになりながら、鶴橋の面白い話・・・おばさんが商店街で倒れているんだけど、倒れながら何かを売ってる話だとか、卓球のラケットで「ゴ〜、ストップ、ゴ〜、ストップ」と交通誘導をしているおじさんの話とか・・・さらには短い時間だったけど、食後に実際に鶴橋の商店街を歩いて、「今度は都会に来たいな」と言わしめたぐらい、街自体も気に入ったらしい。


「いや、実際にさ、山を見ておいたらね、ヒロさんが罠をかける時に、俺も少しは良いアドバイスが出来るんじゃないかなと思って」と言って来てくれたタツさん。

今回、吉井さんとタツさんと山に入って、何でかはよく分からないけど、自分が罠猟を始める日は、そう遠くない事を感じた。
自分の地元の山だったせいか、自分が猟に入る事が、上手く言い得ないが、他人事で無い感覚があって、眠っていた感覚の様なものが、疼き、昂り始めているのを感じる。

本当に今、忙しくて時間が無いのだけど、何とか時間を見つけて罠の試験勉強をしたいものだ。理想は、今年罠を取って、来年は空気銃。再来年に銃を取得出来たら嬉しいのだが。

なんてったって、最強の師匠がついてますからね(笑)
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by oglala-beads | 2008-04-06 00:07 | 狩猟関連